武士道はキリスト教 西洋の価値に近づけるためのツール 厳格さや公正さを求められる 嘘をつくなら弱者のため
“嘘”をつく 弱者のため
学生スポーツにおける暴力とは
学生スポーツで起こる暴力を簡単に説明するなら、絶対的支配下におけるアンフェアさと精神論による暴力。
DVの構図にも通ずるか。
確かにプロスポーツが利益を追求する事は最低限理解する。結果も出ないのに、利益だけ上がるという話も理解に苦しむ。
大人 公正さと厳格さをもった強い人
公正さと厳格さを持った中で、結果と利益を結びつけ、かつ、その競技を志したいと夢を持てる世界でなければならない。また、その態度を示さなければならない。そんな、競技者でなければならないし、大人でなければならない。
子供を蔑ろにしてまで威張り散らすオトナで良いはずがない。そんな世界で良いはずがない。日本はそんな国ではなかったはずだ。ただ、いまのオトナは知らないらしい。日本がどんな国か。
“学生スポーツ”は教育の一環になるか
学生とは、学校で学業を修めている者。また、“学生スポーツ”とは教育の一環のはず。ただ、これすらお題目だけなら、お話にならないが、そういう前提で進める。
では、教育とは、
教え育てること。知識,技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ,価値を実現させる活動。
プロ選手も子供に示せる人
公正さと厳格さを持ち合わせてこそ
つまり、スポーツを生業にしているのであるのなら、スポーツを通じ、後世の子供たちに、“教え育てること。知識、技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。”をできる人間でなければならないし、また、日々自身も追求し続ける人間でなけらばならない。
プロ選手であるのだから、なおのこと、その姿勢が必要となるし、指し示せる人間でなければならない。
また、そうでなければ、子供たちに夢も希望もない。
結果至上という下賤さ
プロ選手が示さなければ、ただ稼げればいいと、下賤な人間ばかり増えてしまう。
その事をDeNA筒香も指摘している。
結果至上という下賤さ。カネの為なら人を蔑ろにできる下賤。メンツの為なら子供たちを蔑ろにできる下賤。
戦後教育と“スポーツ”の歪な結びつき
教育が間違えていたのだろうと思う。おおよそ戦後教育だ。
また、その戦後教育とスポーツがいびつに結びつき、えげつない発展をしてしまったのがプロスポーツ。プロ野球もその一つだろう。
プロ野球を志す、若年プレイヤーに人としての在りよう、野球人としての在りようを示せないのは、“結果至上主義”が全て由来しているといって良い。
結果の為なら、何をしても良いという発想だ。ただ、ルール内だから良いだろうと誤魔化すのだろうが、理屈をコネてまで子供を蔑ろにする人間を大人とは言わない。
その未熟なオトナが様々なところで問題を起こしている。
日大アメフト部監督もそうか。
それは、過度に“結果”を追求したことによる不幸といえるかもしれない。
教育とは、教え育てること。知識、技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。人間に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。
と、なるが、もちろんそうだろう。
英語「sports」からの外来語で、「sport」は「気晴らし」や「楽しみ」「遊ぶ」などを意味する「disport」が変化した言葉。
「disport」は中期英語で、古期フランス語「desporter」に由来する。語源はラテン語のdeportareで、deは遠くへ、portareは運ぶの意。日常から離れる、すなわち気晴らしをすることを意味し、それを経て現在のsportに至ったと考えられる。
- 作者:川﨑 享
- 出版社/メーカー: 創英社/三省堂書店
- 発売日: 2014/11/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
“学生スポーツ”は“教育の一環”
教育の一環なら公正さと厳格さも必要
“学生スポーツ”は“教育の一環”というところを加味していくと、より、公正さと厳格さが求められる。
フェアを守り抜く勇気は、礼でもある
常にフェアを貫くための勇気。
そのフェアを死ぬ気で守る心は、大事なものを死ぬ気で守る心。
それは、そのまま人への思いやりとなり、弱き者をいたわる心を育み、他者の気持ちを尊重し、そこから生まれる謙虚さとなる。
つまり礼。「礼儀作法」の根源。
雑学ではダメ。日々実践
また、口で言うだけでは意味がない。日々これらのことを実践していく。嘘でも実践していく。
嘘や誤魔化しはダメだが、嘘でも続けることにより、自分のものとなる。
嘘も真実になる。自身が正されるなら嘘でもいい。やれという事。
口だけなら、黙れという事。
嘘を恥じて正してこそ
嘘をつくことを恥ずかしいと思う心は、自分に対する恥じ。
自分を誤魔化すことは絶対にできない。
嘘をつくと一生そのことを悔いることになる。また、そのために、新たな嘘をつかなければ成らなくなるから、最初から嘘をついてはいけない。
また、力を背景に嘘をつかせてもいけない。それも卑怯。
卑怯な生き方をしてはいけないと恥じる心。その、高潔な生き方を追求し、守ること。
恥を知ることにより、自身の立ち振る舞いを正される。
恥を知り、日々追求するものが大人
立ち振る舞いを正す努力を日々追求することは、如何に美しく死ぬかを追求する事でもある。
また、その命とは何のためなのか、と言う哲学にたどり着く。
日本において、これらの事を説明するには『武士道』以外にできない。
『武士道』を日々追及することを求む
『武士道』の徳目を日々追及することこそ、大人にも、プロスポーツ選手にも求められるし、子供に指し示してこその大人。
口だけなら、やめろ。
それは大人とは言わない。ただのコドモ。
口だけにするのではなく、学んだものを日々に反映させていくこと。また、学んだことを真似てより良い人間であろうとすること。
また、そのことを生涯追求することを学ぶというのかもしれない。
「武士道」とは「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」からなる道徳である。
「義」...人間としての正しき道、正義を指すもので、武士道のもっとも厳しい徳目である。「フェアプレイ精神」
「勇」...義を貫くための勇気のこと。犬死はならぬが、正義の為なら、命も惜しまず。
「仁」...人としての思いやりと他者への憐れみの心。「惻隠の情」であり弱き者を、いたわり思いやる心。
「礼」...仁の精神を育て、他者の気持ちを尊重し、そこから生まれる謙虚さ。つまり礼のことで、「礼儀作法」の根源。
「誠」...文字通り、言ったことを成すこと。嘘や誤魔化しを嫌い「武士に二言はない」という言葉は武士道の徳目である。
「名誉」...自分に恥じない高潔な生き方を追求し、そして守ること。つまり、恥を知ることにより、己自身の立ち振る舞いを正される。如何に美しく死ぬかを追求する事は同時に生きる事も追及する事になり、そして、その命とは何のためなのか、と言う哲学にたどり着く。
「忠義」...なんのために生きるのか、それを表すもの。己の正義に値するものであるなら、絶対的な従順を示す。しかし、奴隷にはならず、己の命をかけて主君に意見する事でもある。
学ぶことは真似ることから 行動で示す
大人が卑怯ではいけない。大人が嘘つきではいけない。大人が卑しい生き方をしてはいけない。
美しく正しい姿を嘘でも示さなければ子供も混乱する。
「口では綺麗ごとを言っているけど、行動は違う」と。
もし、口では綺麗ごと、態度はコドモという未成熟なオトナが力を持ったところで、それは子供にとって悪夢でしかない。
日大アメフト部反則タックル問題でも同様のことで、コドモなオトナが力を持ったところで上手くいくはずも無い。
9条論議の為にも襟を正してこそ
同じように大事にするのが"I"なら”平和”
コドモなオトナが場当たり的に、憲法9条と言ったルールを変更したところで、どうせ、ルール内で悪事を働くのが戦後のコドモなオトナ。
まず、オトナが正さないと、9条論議すら進まない。
- 作者:畠田 秀生
- 発売日: 2016/07/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)