犬かわいそうなのでドイツ応援する 年間殺処分[日]82,902頭 [独]0頭 日本NじゃないMJ Nは国体にならない殺処分 [国体]M:ⅥⅦ/SS

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日米優しくない!

モノこそ重要であるとした

  結局、これが戦後日本の価値観なのだろう。そして、それを良しとして来てしまったのだろうし、大半の日本人ですら、モノこそ価値があると最重要視してしまっている。

 犬猫などの生き物ですらモノ位の感覚なのだろう。だからこそ不要となれば心無く捨てる。モノとみるから虐待する人間も現れるのだろう。

 

あまりにも唯物的なさま、現状の日本

 そもそも、ルールで縛るような問題でも無いように思う。法で縛られなければ、己を律する事が出来ないのだとしたなら、いよいよ、神道における徳目が風化してきている事になる。

 宗教が担う役割とは重要だ。

 本来、欧米人は残酷で野蛮でもある。が、彼らが自身を律することができるのは、すべて宗教が由来していると理解した方が良い。

 彼らにとって無宗教、無神論者とは残酷で野蛮な人間であると宣言することと同意なのはこのためだ。つまり、犬猫に心を見ることが出来なくなった現代日本人そのものと言えるし、宗教なくしてでしか、己を律することが出来なくなったのもまた現代日本人。

 

レース中や厩舎で亡くなった馬の供養

 自分は、競馬が好きだ。

 これに関して、いろいろ言う人もいる。ただ、この点を言い訳する気はない。と、前置きをしつつ...競馬場や、競馬場周辺を少し歩いてみると、馬頭観音が必ずある。

 

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「馬頭観世音」 大田区妙福寺にて撮影

馬頭観音とは 

近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県地方では馬に跨った馬頭観音像が多く見られる。

現代の日本においては競馬場の近くに祀られていて、レース中や厩舎で亡くなった馬などの供養に用いられている場合もある。また、赤字等で廃止された地方競馬の競馬場では、旧敷地の片隅にあった馬頭観音が撤去されずに残され、かつての競馬場の存在を現在に伝える数少ない痕跡となっていることもある。

馬頭観音 - Wikipedia

日本人こそ多様性を理解してる

年々、暴力的になってやしないか...

 本来、日本人は馬に対しても心でみることが出来たのだし、モノと捉えている様子とも思えない。だからこそ馬の神様がいるといえるが、犬猫にも同様の気持ちで接していたのだろう。 

 ただ、現代人は違う。個人が大きく占めるべきをルールでどうにかしようとしている。当然、ルールだけで縛ろうとするからこそ、“ルールに反さなければ、裁かれることも無いので、何をやってもいい”という安直な発想の源泉にもなっている。また、年老いて古くなれば無価値との考えからか、安易にペットショップの容姿に恵まれた子猫などを買ってくる。また、老いれば、モノでも捨てるかのように保健所に連れていく。

 彼らにとってはこれらの事も痛く痒くもない。

 心が無いのだから、犬猫の心などみようともしない。彼らが気にするのは、やはりモノだけで、それは、ルールであり、罰則や罰金だけなのかもしれない。

もののあはれを感じる心  寛容さどこ

 彼らにとって、これらの事は犬猫だけではない。人間にも同様にモノという価値観を向ける。

 年老いた相手よりも、若くて、可愛い、格好のいい異性を安易に好きになり、長年連れ添った相手より、優先順位が上回ってしまう。

 モノでも相手をしているかのように安易に裏切り、捨てる。当然、モノとみるから、古くなれば価値がないとしてしまうのだろう。

 そして、それを良しとしてしまっているのが、現代日本だとしたのなら、犬猫の問題も解決しないかも知れない。

 幾らルールで縛ったところで、全く解決にはならない。

 結局、人権や平等、平和、自由などと、言ったところで、戦後日本とは、より暴力的になっているし、言葉では綺麗ごとを言っているが、心も無く、裏切るのもまた、その綺麗ごとを言っている人びと。

 犬猫の命すら全うさせられないのに、何が人権かとも思うし、なにが平和かとも思うけどね。

 

神道とは何か - 神と仏の日本史 (中公新書)

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