料理と表現の話 「家=時間×空間」で育み続けた“i”を表現 育み続けた“i”から表現されたものは“i”をもって
料理と表現の話
はじめては「バナナジュース」
はじめて料理をつくりふるまったのは、カレーライスになるのだろう。1988年のこと。母が体調を崩し、武蔵小杉駅歩いて数分のところにある、病院に入院する事になった。
1,2カ月の間、父と過ごすことになった。
家庭科の授業で覚えた、カレーをつくって一緒に食べることが出来た。料理と言えるのだろうか分からないけれども、小学校1年生くらいの頃、家庭訪問にきた、先生のために、バナナジュースをつくって出したこともあったようです。
料理をつくって過ごすことも好き
1997年日吉で一人暮らしをする事になる。そのころ体調は良くないものの、家にいてもする事もないし、料理でもして気を紛らわせようとチャレンジしたこともあった。
手の込んだものは出来なかったけれど、パスタなどをつくったりもした。そんな感じで割と料理をつくることが苦になる事なく、楽しく過ごせているようです。
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表現の自由について考える
「家=時間×空間」で育み続けた“i”を表現
表現について考えることがある。表現の自由と言えば良いのでしょうか。
時間と空間の交わるとこに自分がおり、それは家かも知れないが、つど属した空間から心が育まれる。
“i”という言い方もできるかも知れないけれども、つど属した空間から育まれた心。
“i”と向き合い、対話を続けながら、育み続けた“i”を見える形に表現する。まっさらなところに投影、表現、創造物としてあらわす。
「家=時間×空間」で育む心
イメージに無いモノを表現出来ないから“i”
イメージされたものと表現されるものは、かならず一致しており、イメージとして無いものを表現、創造物としてあらわすことはできない。かならずしも一致しているなら、そのようになる。
イメージできないものを表現や創造物としてあらわすことが出来ないから、“i”を育み続ける必要が有る。
表現の上達の方法になるのでしょう。
育み続けたiを、見えるかたちに一致「国体」
なぜ"アカ”は表現がヘタか「唯物論」
見たままは上手、見えないを見るのは?
なぜ“アカ”は表現がヘタかを以前から考えていたのですが、おそらく「唯物的」なことが理由になっていそう。心よりモノが優位に立つ考え方になる事から、みたままをとらえ評価したり、かんがえたりしてしまう。もちろん、みたまましっかりスキャンすることが出来たなら、勉強は必ずしもできる。黒板に有るのものまるまるスキャンできれば、ノートをとる手間も減る。勉強ができるに違いない。知り合いにこのタイプの人がおり、似たようなことを言っていた。
唯物論(ゆいぶつろん、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
対義語は唯心論(ゆいしんろん、英: Spiritualism)で、精神のほうが根源的で、物質は精神の働きから派生したとみる。
育み続けた“i”から表現されたものは“i”で
見たままをしっかりとらえるという事は、心のうちを見る事は苦手なのではないかとイメージされる。イメージされるものを形として表現する。心とかたちは一致しており、目の前に有るもの全て誰かの心が形としてある。
たとえば、誰かが手料理を作ってくれたとして、それは、育み続けた“i”から表現されたものに違いないから、でき如何に関わらず、それは“i”に違いない。たとえ、下手くそだとしても、“i”に違いない。
もちろん、みそ汁など塩っ辛い場合もあるから、そういった際は、伝え方に工夫が必要になりそう。“i”をイメージして伝える。
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