西部邁 名言から考える帝王学

名言を受けて

第一回 西部邁さん

 仮想文通にも通づるのかもしれない。これまで、多くの仮想文通を続けてきた。

 小保方晴子さんに始まり、フジファブリック志村正彦さん。また、ウーマンラッシュアワー村本大輔さんとも行う事ができた。

 文通を重ねる中で、多くの発見があり、理解も深まったようにも感じられた。

 相手をイメージして行うことから自然と好意の様なものが芽生えるもの。心を重ねるというならそういう事になるのだろうか。わからないところでもありますが、ひとまず、置いておくとして、今回は、“名言を受けてどうか”をテーマに行っていこうと考えております。

何かとお世話になりました

 2006年ある事が理由になり、入院する事になりました。その事が理由で問題になってしまった事により、現状、落ち着かない日々を送っておりますが、家族の協力もあって、実家の方にお世話になっております。2003年から、こちらで暮らしており、当時、西部邁さんの本を読んでいたことも思い出されました。

 そんなこともあって、以前から、何かと気にもとめており、2018年初冬の出来事も残念でなりませんでしたが、できる限り、多くのことを、お話しできたなら嬉しいです。

 

西部 邁(にしべ すすむ、1939年(昭和14年)3月15日[1] - 2018年(平成30年)1月21日[2])は、日本の保守派の評論家。雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

人物 

西部が高く評価している日本人は山本常朝、福澤諭吉、中江兆民、夏目漱石、田中美知太郎、坂口安吾、秋野不矩、秦野章、福田恆存、三島由紀夫、色川武大、立川談志、唐牛健太郎などである[107][108]。
姜尚中や佐高信と対談したり『週刊金曜日』の取材に応じたりと、立場の違う人物とも積極的に対話を行った[109]。特に、佐高とはともに映画ファンという共通点があることから、雑誌上で映画についての対談も行っている(後述の『映画芸術』を参照)。
喫煙者である。すぎやまこういちらと共に「喫煙文化研究会」を発足し、昨今の嫌煙運動について反発している[110]。
くちヒゲ、あごヒゲを蓄えていることが多かった。

西部邁 - Wikipedia 

昔、言葉は思想であった 語源からみた現代

昔、言葉は思想であった 語源からみた現代

  • 作者:西部邁
  • 発売日: 2015/12/15
  • メディア: Kindle版

西部邁名言集

S.熱狂を避ける

保守思想が何を意味するか、その定義は様々であろうが、今、仮に保守思想を体現した人物が眼前に現れたと想定してみると、その人物はまぎれもなく大人の風貌をもっていると見当がつく。オトナの定義もこれまた様々であろうが、さしあたり、物事に熱狂するのを避けること、それが大人たることの第一条件だといえよう。

出典
西部邁「日本の保守思想」

先生が私に与えてくれた印象を一言で表現するなら、明朗な節度、という形容になろうかと思う。その活気あふれる精神活動はたえず中庸を求めて、一度たりともエクセントリシティにはしるということがなかった。熱狂に溺れるのを避けることにおいて熱狂的であるほかないという保守主義の逆説を、先生は生き抜いているだとみうけられた。

出典
西部邁「ニヒリズムを超えて」

K.影響し合う中で決まるから、冷静に判断する 

熱狂を避ける事は、必要になりそう。影響し合う中で、物事の正しさというものは決まりがちだから、熱狂的になった場で行われた事、そこでの物事の正しさというものも、怪しいものに映る。たとえば、内輪だけで飲んでいる際に、行われての物事や内輪での正しさの話に近いかもしれない。もちろん、影響し合う中で決まった事、その結果に違いないが、後から考えると、なんでそんなことを行ってしまうのか。また、なぜそれが正しいと思ってしまったか。似ている。

正しさは、影響し合う中で決まるものだから、熱狂的な状況を作り出すもの。また、そういうものを利用して、何かを得ようとするものは必ずいるから、慎重に見極める必要があるのではないだろうか。そんなことを考えております。 

 

日本の保守思想 (ハルキ文庫 に 1-6)

日本の保守思想 (ハルキ文庫 に 1-6)

  • 作者:西部 邁
  • 発売日: 2012/05/15
  • メディア: 文庫
S.信頼を取り戻す旅

保守思想は、社会の安定性を根本から揺るがしかねない近代主義という野蛮な思想に抗して、信頼の要素を社会の中枢において回復させようとしてきた。その意味で保守思想は信頼を探し求める精神の旅なのであった。たしかに人々の信頼関係を具現するものとしての慣習は「儀式」の体系にすぎないかもしれない。しかし人間を人間たらしめている言語そのものが、具体的表現においては、儀式たらざるをえないのである。儀式の表し方において各人の自由が発揮されはするであろうが、人間は儀式から自由になることはできない。

出典
西部邁「保守思想のための39章」

K.習慣の中から育まれる心を受け継ぎ伝える

儀式、儀礼というものも、形として一目でわかるコミュニケーションとも言えるのかもしれない。日々の習慣の中から心や文化が育まれる。より良い心を育み受け継いでいくこと、また、より良い形としてあるものが伝統というのなら。歴史の中かから育まれ受け継がれてきた心や文化というものがあるのなら、そういった物事も、守り受け継ぎ伝えていく必要があるのではないか。

そういった日々の習慣から育まれたもの、また、そういった心や文化というものを省みる事がないのなら、自由というものも、違うものではないのか。その様にして考えています。 

 

保守思想のための39章 (中公文庫)

保守思想のための39章 (中公文庫)

  • 作者:西部 邁
  • 発売日: 2012/12/20
  • メディア: 文庫
S.言葉の力を生かしきる

現場の経験を共有しなければ通じないというのであれば、そもそも言葉というものが空しくなる。追体験・想像体験も含めながら、言葉を何とか動員してフィクションとしての共有体験を創りだす、それが言語活動の目的であろう。

出典
西部邁「死生論」

K.コミットメントする事は、歴史の一部になる事 

過去の歴史の総体として、今があるのだとすると、歴史から学ぶ必要もあるのかもしれませんが、自分にとってどうなのかという観点も必要になりそう。今までは、そうなのかもしれないが、自分に合う合わないもそうなら、今後のこともイメージすることも難しくなりそう。

歴史からだけでなく、自分の経験も歴史の一部ととらえ、今後をイメージする糧にしていく。その様にして考えております。 

 

死生論

死生論

S.自己への懐疑

人間は、自分の精神を健全に発達させるためには、自分の厄介な獣性や狂気にたいして原罪めいた意識をもっていた方がよい。それが精神活動の根本条件だといわぬまでも、自分自身を一個のプロブレム(問題)ととらえて自己に懐疑を差し向けることは、精神にたいする調味料であり防腐剤である。人間が一切の苦痛から解放されて快感に打ち震えつづければ、そのとき精神の発達は停止するであろう。

出典
西部邁「人間論」 

K.自分とは違うものに触れることで認識する事も 

成長を促すためにも、摩擦の様なものが必要なのだと聞いた事があります。ストレスは、成長するためにも必要なもので、自分と違うものと触れる事により摩擦というものが起こるだろうから、自分というものがより認識しやすくなることでもある。それを苦痛というならばそうだろうし、違うものに触れる事により、自分を認識できる事でもあるから、疑う力を養うことも。できる限り、違うものに触れ、多くを知る必要もあるのかもしれません。

 

S.至らなさを補ってくれる知恵が伝統のうちに

そしてまったくの本気でいうと、私が自分に少々の誇りをもちうる究極の論拠はというと、自分の至らなさを知っているということ、そしてその至らなさを補ってくれる知恵が伝統のうちに秘められていると知っているという点にある次第だ。

出典
西部邁「日本の保守思想」

K. 自分も歴史の一部だろうから伝統の中に補うもの

自分というものを歴史の中の一部ととらえており、過去の積み重ねというものの中から、より良いものとして今あるものを伝統とするならば、自らをより良いものにするのも、やはり、歴史の中にあって、過去の積み重ねの中にも自分がおり、習慣の中で育む心が文化や伝統となるだろうから、やはり、伝統の中に補うものというのはあるのかもしれません。

 

安倍でもわかる保守思想入門

安倍でもわかる保守思想入門

  • 作者:適菜 収
  • 発売日: 2017/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
S.一人一人の不完全さを補う仕組み

(略)異性と一緒に暮らすこと、それは自分の精神が不完全であることを認めるという至極真っ当な判断に立つことなのである。

出典
西部邁「人間論」

男女はともに暮らすことにより、男は女の、女は男の気持ちを分かるよう努力しなければならない。男女関係の維持は、一人一人の不完全さを補う仕組みの一つなのだ。

K.互いの良し悪しを知り共にできるなら嬉しいこと

ともに暮らすことを良いことと考えており、外で会うことと家で会う事も違えば、また、ともに暮らしてみてどうかというのもまた違う。ともに過ごす事により、互いの多くの場面場面を見てとる事ができる。今まで気づかなかったことを知り、幻滅したり、また、その反対があったりして、より、良いものに思えたりする事もある様です。ただ、たまに会うのとは違い、生活をともに送ることでもあるから、良い場面ばかり見る事はできない。どちらかというと、格好の悪いところばかりかもしれないが、それでもともにできるなら嬉しい。その様に考えております。

S.欲求や意見や行動が無制限の権力になる者は、危険

私たち不完全な代物にすぎぬものは、自己の欠陥を何物かによって制限されなければならない。逆にいうと、自分が制限を受けるにふさわしい不完全な存在だと知るのが人間の賢明であるための第一歩だということである。そして、そういう自己を疑うことを知っているという意味で賢明な人々のなす「多数参加による多数決」ならば、デモクラシーもまあまあ真っ当な線を歩むであろう。しかし、自己の欲求や意見や行動が原理的に「無制限の権力」となるべきだと思うような人々によるデモクラシーは、ほぼかならず、衆愚政治へと転落するのである。

出典
西部邁「マスメディアを撃て」

K.関係性の中で決まる、影響力の強いものほど正しい姿

関係性の中でしか人間は生きられないだろうし、正しさというのも影響し合う中で、それらしいものが正しいものとして、決まってしまう。それは、影響し合う中で決まっただけで、正しいものかどうかなど分かりっこないし、多数決というものも正しさをはかるための装置でもない。やはり、影響力の強いものに引っ張られてしまうものだから、そういった力が強いものが、より良いあり方を示す事ができなくなるのなら、一線から身を引くべきと考えております。

 

マスメディアを撃て

マスメディアを撃て

  • 作者:西部 邁
  • メディア: ハードカバー
S.家族の不思議と偉大さ

実際のところ家庭は、ある意味で、非日常的な空間なのだ。同じ男女の組み合わせで性交渉という(それ自体としては動物的な営みが)日常的に行われているのがそもそも異様である。また、その異形の振る舞いに(夫婦の名の下に)文化の形容が冠されているのがさらに非日常的である。そこには出産や育児という(合理的には処理しきれるはずのない)難業が待ち構えており、しかもその難業が夫婦の生き甲斐とされている。そしてそのうち、三十歳の世代の隔たりを超えた親子関係が、ごく当たり前のこととして、小さな空間のなかで繰り広げられる。

出典
西部邁「保守思想のための39章」

章題は「家族の神聖」。家族を肯定する文脈にある。

K.イメージされた両親に表情は、楽しそうでした

家族と過ごした事はあったものの、家庭の温かみの様なものを感じられたのかというと、おそらくなかったかもしれない。両親とも忙しくしていたし、また、それをよくないものとも思わなかったことから、不満には思うものの、聞き分けよく過ごしていた様に思います。振り返る事も増え、ルーツ探しの様な事もしています。記憶を頼りに地元に帰る事も。また、家族だけでなく、友人知人と過ごした場所にも訪れたりもしました。当時のものは、そこにはなく、残念な気持ちにもなりましたが、思い返してみると、そこまで、よくないものだったのか。不満は確かにあったものの、家で過ごした時間が、よくないものだったかとも考える事もある。イメージされた、両親の表情というのは、楽しそうでいるから、それを思うと嬉しい気持ちにもなります。

 

日本人を肯定する: 近代保守の死 (勉誠新書)

日本人を肯定する: 近代保守の死 (勉誠新書)

  • 作者:田中英道
  • 発売日: 2019/10/13
  • メディア: Kindle版
S.家族とは子供をつくった夫婦のこと

(略)異性のみならず、上下に三十歳ほども異なる異世代とも付き合いながら、その反応の総体に家族という形を与えてまとめ上げていることそれ自体、優に一個の奇蹟である。

出典
西部邁「人間論」

家族とは子供をつくった夫婦のことである。そのつくり方は養子という形をとっても構わないが、ともかく、子供の養育という作業が伴わなければ家族とはいえない。子供のいない夫婦は男女関係の固定化ということにすぎない。

出典
西部邁「人間論」

K.不自然なものごとは習慣だけでなく文化にもならない

日々の習慣から心が育まれるだろうから、家族で暮らす事、また、生活をしていく中で、心を育み伝える。子供がいるなら、育み伝えていく。

不自然な事は習慣になる事はなく、歴史の中で、自然に排除されてきたろうから、今あるものから、心を育み伝える必要がある。また、不自然な物事を、過去にそうした様に、排除していき、より良いものを育み受け継いでいく。心や文化というものを育み伝えていく事が必要になるし、心が形として現れたものを表現や、文化というのなら、より良い心を育むことから始める必要があるのだろうと考えております。

 

NewsPicks Magazine vol.2 Autumn 2018[雑誌]

NewsPicks Magazine vol.2 Autumn 2018[雑誌]

  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 雑誌
S.世代間の断絶

人間は、自分よりも年をとった友人・知人と自分よりも若い友人・知人の両方を持っているとき、自分の言語活動を通じて過去から何を受け継ぎ、未来に何を受け渡すことができるのかをリアルに感じたり知ったりすることができる。そのことによって伝統の不滅性を、生の営みのなかで確認することができる。

出典
西部邁「死生論」

ひょっとして、いま人びとが死の問題をとりわけて議論しなければならなくなっているのは、たった一つの理由によるのかもしれない。つまり、世代間交流の杜絶ということである。自分たちの世代の生き方を伝統として残そうにも、その引き渡し相手がいないという老人たちの孤独、それが死を陰惨なものしているのではないか。上および下の世代との交流を可能なかぎり、無理のない形で、継続するという生活の知恵が失われたーーそれが知恵であるのは、伝統を確認することによって死の恐怖を緩和することができるからである。

出典
西部邁「死生論」

K.理屈ではならない事も多く、心を大事にしたいです 

理屈でわかっている事と、実際にできる事には、差があるのだろうと、感じることができました。どういうことかと言うと、野村克也さんの事を考え、記事にあげようとしていたところ、違和感を感じてしまいました。アスリートとして、感じ取った事。体験した事。そこでの結果などを踏まえ導き出されたものが、表現されていたのだとして、それを受けて、文言を次々並べてしまった事に、出鱈目さを感じてしまいました。理屈でわかる事と、実際にどうなのかは違っているようでした。

実際に人に触れ、そこで違いを知る事も必要だったかも知れないですし、確かに、摩擦というものは、不快なものにも感じられましたが、それは、違いを知った事でもあったのかも知れません。自分を認識した。知る事ができました。育み受け継ぐと理屈でいうものの実際に現場でどうか、というのも違うのでしょうし、やはり、人あってのこと。思い通りにならない事も多かったようです。

 

S.伝統があるから「私」がある

私がいま曲がりなりにも精神として存在しているのは、伝統につながっているおかげなのだと考えられる。時間の流れをつらぬいている不易なるもの、それが伝統であり、それゆえ伝統はほとんど定義的に不滅である。そう思うのでなければ、私の言葉は発散するか縮退するかどちらかとなる。
実は私は死ぬわけはないのだ。「私」とは「言葉としての私」なのであり、その言葉を支えているのは伝統である。そしてその伝統が不滅なのであるから、私は死なないし、死ねないのである。死ぬことができるのは単なる生命体としての私である。

出典
西部邁「死生論」

人間の個性を礼賛するのが近代主義者の常套であるが、保守思想によれば、個性が素晴らしいものであるのは、それが伝統を(具体的状況のなかで)具体的に表現してみせるかぎりにおいてだということになる。

K.心が形として現れるから心から育む

日本という国を苦手にしており、それは不一致からくる不自由さが理由になっていそう。ただ、なにかものを考える際に、自然と日本を意識する。日本人なのだ。いくら日本を苦手にしていたとしても、なにかものを考える際、日本語で考えているのなら、それは心は日本なのだから、日本人といえそう。

幼少期から、見聞きしたものから心が育まれる。それは、日々の生活の中から育まれ、心や文化になっていくのだろうか。心が形として、現れたものが表現物となるだろうから、心を育むことから始めなければならないし、そういったものを形として表していく必要もありそう。 

 

日本人が信じている近現代史は嘘だらけである

日本人が信じている近現代史は嘘だらけである

  • 作者:黄 文雄
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
S.信仰は「半信半疑」でよい

もっと率直にいうと、現実的無信心と仮説的信心を両輪として動かしている人間に会うとき、私は安堵するのだ。宗教者には暴言と聞こえるかもしれないが、無信心と無縁な宗教者と接するのは私にとって大変な苦痛なのである。疑のない信だけの領域には、やはり狂気としかいいようのない雰囲気がただよっていると私は感じる。

K.より良い人間になれるなら、何を信仰しても良い 

より良い人間になれるのなら、何を信仰していても良いと考えており、日々の習慣の中か心や文化が育まれるのなら、信仰から得られるものというものも、やはり、日々の積み重ねの中にあるだろうから、もし、そこで育まれた心というものが良いものなら、それは、良いものに違いない。

  

S.国のための戦うということ

平和主義に頼っていれば、相手の従僕になっていてもいいくらいの姿勢でいるかぎり、死なずにすむということになるかもしれない。しかし自分がそうすることによって、家族や同胞が、そしてそれらの子孫が屈辱の生を強いられることに堪えられないと思うものは、危機を引き受けて死ぬこともありうべし、と構えるほかない。それが最も単純な形におけるパブリック・マインド(公心)である。

出典
西部邁「国民の道徳」

戦後日本では、平和主義という言葉の意味はもちろん肯定的なものである。しかし外国でパシフィズム(平和主義)あるいはパシフィスト(平和主義者)といえば、否定的な意味合で用いられることが多い。あっさりいうと、卑劣漢、臆病者ということである。だから、「お前はパシフィストだね」といわれたら、常識をもった外国人なら、「俺は卑怯でも臆病でもない。いざとなったら家族のため、祖国のために戦うことを厭わぬ人間である」と抗議するに違いない。

K.出来る限り不和を減らす努力を重ねる

戦争について考えることもあって、たとえば、外交を重ねても、回避することなく、手段として、戦争というものがあるのだとすると、人ひとりが出来ることというのは何なのか。人ひとりが出来ることは何か。

やはり、出来る限り、常日頃から不和を減らす努力を重ねる以外なく、それは、知ることからと考えており、地域やそこで暮らす人々と出来る限り、コミュケーションを重ねる。地域や自分を育むものとともにする。心や文化というものを大事にする。繰り返し行う中で、自然と心が育まれ、不和も減る。自然と平和になっていくのではないのか考えているようです。 

 

S.刺激的なだけのコンテンツの氾濫

IT(情報技術)がいまもてはやされていますが、そこにおいて流布、消費されているのは、歴史的蓄積とは切断された、束の間の刺激的な情報ーーポルノ情報や金融情報で、それらは速やかに世界中に伝達される。しかし、それでは束の間しか人々の情念が燃え立たないから、次にまた別の刺激的な情報はないかと、テレビマンやインターネット関係者は鵜の目鷹の目で見つけ出しては誇大に宣伝して高速に流布させる。現代の文化はそういう情報で埋めつくされれんばかりになっている。

K.便利でありがたい、どこか疾しさのようなものも 

確かに便利だし、調べ物をしてもすぐ見つかる。スマホなどの端末を利用することで、どこでも気軽に、音楽を聴くことも、動画を見ることも、ショッピングも楽しめる。また、SNSなどで、簡単なコミュニケーションもはかれ、実に便利なツールと言えそう。

ただ、どこか、やましさのようなものを感じており、簡単に情報を得られてしまっている事により、時間の経過が感じられづらくなっているのではないか。空間ばかり、横に広がっている感覚があって、時間をかけて積み重ねてきたものを、検索して、すぐさま結果が出てしまう。いとも簡単にわかった気になってしまう。歴史の積み重ねというものも感じられづらく、恐ろしさのようなものもある。