Scapegoat 1996年 獨協大学通う地元神奈川友人 新聞配達中事故死 2006年8月27日自殺企図 電気痙攣 2年弱記憶喪失 足立区大内病院

Scapegoat

Ⅰ.1996獨協大学埼玉県草加市

 民主主義やめよう。おしまい民主主義。民主化されないまま、死にました。

 そもそも、何を持って民主化達成となるか。日本では、達成されないまま、死んでしまった民主主義になりますが、何を持って達成となるでしょうか。

 一票の格差をベースにして考えてもよさそう。国体から考えると、一票に格差があってはいけない。理想かもしれないが、なるだけあってはならない。

 Ⅰ/Ⅰ十

 国連加盟国今現在193か国あるが、普遍的なルールに基づくあら、すべて対。各々対国体。もちろん、常任理事国、非常任理事国というものもあるが、普遍的なルールに基づくのなら、すべての国々が尊重されており、一票の格差もない。

[国体] 日本 M:ⅥⅦ / 資本主義 共産主義 民主主義 普遍性 Globalism SS 海外 [鏡] 

 今現在、国体にない日本の民主主義。国体にない日本の民主主義は不成立と考えてよく、N状態が理由になりそう。日本そのものが国体になく、自衛隊も国軍にならない。専守[選手]防衛。国体未満の日本。自衛隊。民主主義。

 まずはN状態から脱すること。55年体制を突破しないとならない。

[透明性低い]1996新聞配達バイク事故

 獨協大学  埼玉県 草加市にある。

 事故死した友人が通っていた大学になるようだ。

 両親がいないやつで、お兄さんと共に、親戚の経営する町工場の一画を間借りして、暮らしていたようですね。新聞配達のバイトをしながら、高校に通っていたようです。神奈川県立鶴見高校だったでしょうか。苦学の末、現役合格したそうな。

 バイトを続けながら、通っていたようですが、事故死。

 残念ですね。

環七 日光街道 西新井 足立区大内病院

 母の地元が栃木県大田原市。母も読売考案3s政策のScapegoatにされているようですね。残念ですね。いかがお考えでしょうか、読売さん。

 環七、目黒通り交差点[柿の木坂]

 碑文谷病院、入院2020/9/3-10/12

 学芸大学駅周辺[鷹番]

 羅列してみましたが、どうも、疑わしいものに見える。考えたくはないが、最初から計画されていた通りに進んでいたとみられそう。最初から、賢君の記憶を消す予定だったかもしれないし、友人も殺してしまう予定だったかもしれない。ないと思いたいが、あまりにも、数字がそろいすぎているため、疑ってしまう。N医師とは言えども、医療現場[十]で事故ばかり、大やけどばかり追わされており、疑ってしまうのも、仕方ないかもしれない。説明していただけるとありがたいですね。

 

Ⅱ.中学時Volleyball部友人の話

両親おらず兄と親戚営む工場で暮らす

 中学時代からの友人で、同じ部活動でともに汗を流していた仲間がいた。

 その友人には両親がおらず、兄とともに親戚のもとに間借りして過ごしていたようだった。その兄とは面識は無かったが、町工場の何部屋かで生活していた。

 ただ、そういった状況下にあるにもかかわらず、勉強はできるようだった。

 飲み込みも速いようだったし、たしかに成績も良いのだが、小柄で色黒なことも理由だったかは分からないが、からかわれていたように思う。ただ、頭が良かった。

 また、そのような状況下でも、特に不平不満を言っている様な記憶もなければ、言い訳をしている事もなかった。

 粘り強く物事に向き合う人だったのか。

 兄とともに物事に打ち込み、必死に戦っていたのだろうと思う。

 町工場の何部屋かを間借りしていたので、自由に行き来は出来たようだ。泊りがけで遊びに行ったこともあったし、徹夜で麻雀を打ったこともあった。みなでいかがわしい本や、漫画や雑誌を回し読みしたこともあった。

部活動の友人と泊りがけで遊んだりも

 その友人の部屋を見渡すと、これといって、勉強をするための机や参考書があったわけでも無い。また、努力をしているそぶりも見せなかった。

 “がり勉”タイプではなかったようだ。特にするわけでも無く“デキタ”ということか。

 ただ、暮らしぶりは貧しかったように思う。

 高校に進学とともにバイトをしていたのだろうか。カネを稼ぎ、合間をみつけて勉学に励んだということか。兄とふたり必死だったのだろう。

 家庭の事情を聞くことは無かった。自分が幼かったというのもあるのだが、そこまで気が回らなかったのだ。ただ、そういった話を聞くことはなかったが、新聞配達のバイトを何度か付き合ったことがあった。

追記:19/7/13 

 "川崎富士見球技場”の名の一部、"富士見”に何かひかれるものがあった。

 どういう事かというと、幼少期、綱島の西口にある、富士見幼稚園というところに通っていました。

 当時のことを思い出すことがあり、情景がイメージとして浮かぶ。たとえば、園内がどうだったか、とか、建物の構造がどうとか、ある程度説明できるほど、覚えているようだ。

 一つとしてあげるとするなら、皆がお遊戯をする広間にピアノが設置されており、目を上にやると、はく製が気になった。よく見てみると、烏のはく製。

 烏のはく製は、珍しいことだとは思うが、大人になってみると、どういうことか理解できるようになる。

新聞配達バイトをしながら高校に通う

 中学時代から、夜に突然電話がかかってきて、遊びに誘われることも度々あった。寂しかったのだろう、同じ部活仲間とともに、夜中まで遊んだこともあった。

 寂しさを紛らわすためか、夜に電話がかかってくることが多かったように記憶している。何人かを誘い、その町工場に集った。内容は詳しく思い出せないので、やめておくが、アレヤコレヤと話した。楽しかった。

 その友人も、寂しくつらい思いがあったのだろう。苦しい時期が長く続いたのだろう。ただ、仲間と過ごしていた時間は楽しそうだった。

追記①

先日、町工場があった場所に向かった。大倉山にある熊野神社に寄ってから、その足で向かったが、更地になっていた。少し、落ち込んだが、気を取り直し、二ツ池、三ツ池公園に寄ることにした。

[獨協大学] 苦学の末現役合格も事故死

 高校に進学とともに、付き合うことが減ったように思うが、麻雀もたまに打ったし、カラオケにも行ったか。中学時代同様、夜に電話がかかってくることが多かったが、以前のように付き合うことは少なくなった。

 最後に会ったのは、新聞配達のバイトを付き合った日だったか。夜遅くまで遊んでから、そのまま付き合った。

 マンションからみた朝焼けが綺麗に思えた....

 

 苦学の末、大学に進学したようだ。新聞配達のバイトも続けていた。

 大倉山のワンルームマンションで1人暮らしをしていた“ゴムボール野球”の友人からラーメン屋で聞かされた。高校時代から行きつけにしていたラーメン屋で聞かされたのだ。

 その友人はバイクの事故で亡くなったと...

 

 受験シーズンになると、真っ先にその友人のことを思い出す...

 こういった事が重なり、新聞に対して良いイメージを持つことが出来なくなってしまう。もちろん、極端な考え方をしていることも理解していた。やはり、頑固なところもあり、意地っ張りなのだ。

 新聞が嫌いになってしまった。