山本五十六 第26,27代連合艦隊司令長官 太平洋戦争:現実的に見るほど勝てなかった戦争 心や文化というものを大事にする
山本 五十六
第26,27代連合艦隊司令長官
あるがままに物事をとらえることとは、対象となるものをあるがままに見ることになるだろうか。
そのためには、自らもあるがままでないとならないが、あるがまましっかりととらえることで、現実的に物事を見ることができ、判断することもできる。
山本五十六。 日本の海軍軍人。
第26、27代連合艦隊司令長官。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校32期生。前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。旧姓は高野。栄典は正三位大勲位功一級。
- 作者:山本 義正
- 発売日: 2012/12/25
- メディア: Kindle版
仮想敵国米国"工業力の高さを実感”
1919年アメリカに留学、視察を行う。
国内では、油田や自動車産業、飛行機産業に優れ、工業力、工作機械の優秀さに驚きがあった様子。生産力の高さを実感。仮想敵国でもあったアメリカの強さを感じたようです。
1922年米ワシントン海軍軍縮条約
航空母艦総排水量米・英・日・仏・伊の間で5:5:3:1.67:1.67 で定められたものの、軍部の反対が強くあった様子。どうやら、日露戦争において、日本国は勝利し、一等国という意識が芽生えていたようです。そんなこともあって、軍部において、米英5に対し、日本3という比率に納得がいかなかったようです。
戦時体制が強まり、1934年破棄される。
このように考えられないか、たとえば、航空母艦6を太平洋上に日本国は展開するとして、米国9(総排水量の関係で10でない)は、大西洋、太平洋二正面で当たらないとならないことから、日本同様6、ないし7程度を太平洋上に振り分け、大西洋に2、3。英国の比率も5になっていることから、大西洋上はイギリスに任せるようになる。
日本3で米英を5に抑える"メリット”
日本の立場からすると3で米英を5に抑えられる。
当面の仮想敵であった米国を5に抑えられ、太平洋上において、同数程度の航空母艦にできる案でもあったのだから、1等国にこだわり、同比率を求めることは、日本の国力を考えると、よいことではない。
米国の工業力を目の当たりにしてきた、山本五十六さんも同様に考えたのではないだろうか。また、たとえば、同比率だったとして、日本国は9を太平洋上に展開したとすると、米国としては、同数程度を展開せざるを得なくなることから、都合が悪い。不信感を抱いたかもしれない。
太平洋、大西洋と二正面で物事にあたらないとならない米国にとって、同比率は認められない。にもかかわらず、同比率にこだわったのは、心証が悪い。 米国にとっても仮想敵国にあったに違いないから、敵意ととらえたかもしれない。
ワシントン海軍軍縮条約(ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく)は、1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。
アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた[1]。華府条約(ワシントン条約)とも表記される。
条約は建造中の艦船を全て廃艦とした上で、米英:日:仏伊の保有艦の総排水量比率を5:3:1.75と定めた。詳細は表のようになる。なお、各数値の由来や論拠に関しては定かではない。
- 作者:保阪 正康
- 発売日: 2020/12/07
- メディア: Kindle版
空母保有数 日本6米国9
1941年12月8日(S16年)真珠湾攻撃
昭和16年12月8日真珠湾攻撃。戦端が開かれる。
太平洋戦争開戦時、航空母艦保有数、日本6、米国9
真珠湾攻撃の際に、エンタープライズ、レキシントン、サラトガのうち、何隻か沈めることが出来たなら良いと考えていたようです。ところが空母はおらず、思うようにはいかない。どうやら、事前に情報はもれており、空母は洋上にあったようです。
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った[1]、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。当時の大日本帝国側呼称は布哇海戦(ハワイ海戦、はわいかいせん)である。
太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始に次いで実施され、日中戦争を戦っていた日本は米英など連合国との全面戦争に突入した。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失。開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[2]作戦目的を達成した[3]。
太平洋上で優位に立つ”空母を撃沈”
おそらく、何隻か沈めることができたなら、空母保有数でも"トントン”になると考えており、太平洋上で優位に物事を進められるといった戦略にあったのでしょうか。
ただ、そのように物事はうまくいかず、ミッドウェー海戦の大敗北を契機に反転攻勢をかけられる。もちろん、真珠湾攻撃で何隻かの航空母艦を沈めることができたならば、米国に攻勢をかけられることも先送りにできたかもしれないが、山本五十六さんが恐れたように、工業力の差がありすぎたようです。
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある[1])にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。
同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。
日本20隻米国100隻航空母艦生産量
1941年12月8日開戦。1945年8月15日終戦をむかえるが、この間米国は100隻前後の航空母艦を生産。日本は20隻程度。
序盤に優位に戦争を運べていたとしても、徐々に生産力の違いによって、日本の優位性は失われていたに違いない。いずれにしても、太平洋戦争に勝利することはなかったようです。
心や文化というものを大事にする事
これらのことから、今を生きる現代人は、どのように考えればいいだろうか。
物事を現実的に考えれば考えるほど、合理的に考えるほど、どうにもならなかったことを示してはいなかったか。米英と同じように、五(空母 排水量比率)とすればするほど、どうにもならなかったことを示していなかったか。
アメリカに追い付け追い越せで、物事にあたったところで立ち行かなくなることを示していなかっただろうか。
現実的、合理的に考えるほど、ものとして、米英と対等に立とうとするほど、日本は生き残ることはできないのではないだろうか。
- 作者:花井 等
- メディア: 単行本
1904年(明治37年)日露戦争
正岡子規は驚くべき光景を目にする
黄禍論というものがある。19世紀から20世紀にかけて欧州、北米、豪州などの白人国家において現れた黄色人種脅威論として知られる。黄禍論。人種差別の一つになる。
先日、目にすることができた、NHKドラマ「坂の上の雲」では、気になるシーンがあった。従軍記者として随行していた、正岡子規は驚くべき光景を目にする。戦火で逃げ惑う、清国の人々に対し、日本兵が良くない行動をしている。ひどくショックを受けた様子。どうやら、日本軍の兵隊さんの間でも、亜細亜の人々を下に見るところがあったようです。
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
白色国家:立ち振る舞いが問われる
日清戦争に勝利し、後に帝政ロシアと戦うことになる。1904年日露戦争。相手は、白色国家の帝政ロシア。白人国家同士で、どのような結びつきがあるかわからないことから、立ち振る舞いも問われるようになっている。10年前に行われた日清戦争のころとは、違っている。
序盤、優位に戦いを進めるも、戦費が足りなくなってくる。
日銀副総裁として高橋是清は、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。ただ、なかなか、調達することができず、困っていたところ、ユダヤ人銀行家が名乗り出た。
ジェイコブ・シフ。
条件があった。シベリアにいる、ユダヤ人を助けてほしいとのこと。戦費を調達することもでき、戦闘を継続することができた。
高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、官僚、政治家。
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次(わきじ)。近代日本を代表する財政家として知られ、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は「ダルマさん」。
露:バルチック艦隊× 日:連合艦隊
大陸での、帝政ロシアとの戦闘行為により、常に補給が必要になる。兵站。
日本海を経由して、補給することになる。大陸での戦いも優位に進む中、知らせが入る。ロジェストヴェンスキー率いる、バルチック艦隊が向かってくることが分かった。
どうやら、ウラジオストクを目指している様子。対馬沖で待ち構えるも、予定よりも、遅れている。
旗艦三笠作戦担当参謀秋山真之は、判断に迷う。対馬海峡からウラジオストクに向かうのか、それとも、津軽海峡か。もしくは宗谷海峡か。うち漏らすことはできない。決めかねていると、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、”対馬海峡”と静かに口を開いた…
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体:秋山 眞之、慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の名文の作者でも知られている。 三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。
日英盟国イギリスが妨害行為を行う
考えてみると、予定よりも大幅に遅れていることから、”遠回りをしたくなかった”と推測される。近道したいと思うのが人情。織り込んでいたかもしれない。
どうやら、同盟国であった、イギリスがバルチック艦隊に対し、妨害行為を行っていてくれた様子。
対馬海峡で展開していると、バルチック艦隊の艦影が見えた。日本海海戦。
日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約)である[1]。
1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸(ランズダウンハウス(英語版))オーバルルームにおいて調印された[2]。
日本海海戦丁字戦法により完全勝利
東郷平八郎率いる連合艦隊は、バルチック艦隊を前に丁字戦法とった。
これは、トラファルガーの海戦において、ネルソン提督率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊にとった戦法ネルソン・タッチから着想したもの。
丁字戦法(ていじせんぽう)もしくは、丁字作戦(ていじさくせん)とは、砲艦同士の海戦術の一つで、敵艦隊の進行方向をさえぎるような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術をいう。
T字戦法(ティーじせんぽう、英:Crossing the T)、T字作戦(ティーじさくせん)とも言う。
普遍性の話かもしれない。古今東西における戦闘行為を分析し、より適したものをその場に、反映させる。丁字戦法になったのだろうか。
戦法が図に当たり、連合艦隊の一方的な勝利に終わった。
ネルソン・タッチの図。
フランス・スペイン連合艦隊(青)の脇腹をイギリス艦隊(赤)が突く
1905年ルーズベルト大統領仲介講和
日英同盟も有効的に機能し、米国の仲介もあって、何とか勝利を収めることができた。
薄氷を踏む思いで勝利したにもかかわらず、日本国内は、浮足立っており、メディアも大々的に報じた。
ロシアからの賠償金も思うようにならず、騒動も起こったようです。どうも、日本で暮らす人々の間でも、慢心のようなものがあり、その後の国家運営を難しくさせていたかもしれません。
日露戦争(にちろせんそう)は、1904年(明治37年)2月[注釈 3]から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。
講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も得るに至った。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。
- 作者:司馬 遼太郎
- 発売日: 1989/09/30
- メディア: ハードカバー
Ⅰ等国を目指した事が…
1917年ロシア革命 共産化していく
爪に火を点す思いで、艦船などを用意し、帝政ロシアと戦い勝利するも、思ったほどの成果を得られておらず、不満を抱える、国民が多くいたようです。地方の農村部には、貧しい生活を送っている人々もおり、中央に対する不満も根強かったようです。
そんな人々に目を付けたのが、共産主義の人々と考えていいようです。日露戦争で敗れた、ロシアでは、ロシア革命が起こり、共産化していく。
ロシア革命(ロシアかくめい、露: Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ、英: Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。
「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。
明石元二郎:ロシアに対しスパイ工作
日露戦争にあたり、ロシアに対しスパイ工作を行っていたようです。
不満を持つ労働者を扇動するようなことも行っていたようで、明石元二郎もその一人。ロシア国内を情勢不安にさせることによって、対日戦争に集中させることを避ける狙い。
結果、戦争を優位に運ぶことができたが、戦後、ロシア革命にもつながっていったようです。
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。
福岡藩出身。夫人は国子(郡保宗の二女[1])、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
- 作者:司馬遼太郎
- 発売日: 2016/01/01
- メディア: Kindle
国内:情勢不安 国外:帝国主義の時代
話を日本国内に戻すと、日露戦争もあって、国内は疲弊している。
地方に目をやると、貧しい農村部の人々も多くおり、中央に対して、不満を抱えている様子。賠償金も得られず。情勢は不安定。メディアも扇動するような姿勢を示す。共産主義の人々が、地方の貧しい人々と結びつくのも自然なこと。
帝国主義の時代。対外的には、白人国家の欧米列強と向き合うことが迫られる。国家運営がさらに難しくなったようです。
メモ
ロシア Sロシア革命 ソビエトS十共産コミンテルン
イギリス 日英同盟 S 同盟破棄 黄禍論 |
日本 日露戦争 M皇道派M × 統制派N太平洋戦争 |終戦 現在 自民党N
---------------------------|-----------------------------------------------------------------------
米国Tルーズベルト S 民主党S太平洋戦争 |終戦 現在 民主党S
コミンテルンS十 共産主義 |
M:ⅥⅦ / 資本主義 共産主義 民主主義 普遍性 グローバリズム A層 SS
M防衛省5541 / M総務省536計14N
M外務省1116 外交の延長線上の選択として武力行使。戦争。
M農林水産省(国体) 国体を保守するために組織されたもの自衛隊。
MNであれ十でやり続ければ、国外と一致するから、自然とすべてが改善される。
1914年WWⅠ戦後日本ドイツ領割譲
1914年第一次世界大戦に参戦した、大日本帝国はドイツから太平洋上にある島々を、割譲する。南下の姿勢を示す。資源に乏しい日本としては、南方は戦略的にも重要な地域。
現在でも、シーレーンがあることから、重要性は変わらない。
当時、欧米諸国も同じように考えており、東南アジアの国々を植民地にしている。そこに、日本が割って入った形になる。良くない印象を与えたのか、のちに、それまで有効的に機能していた日英同盟が破棄されることになる。また、黄禍論もこの前後に出される。
白人国家の間で、日本や中国で暮らす人々に対しての脅威論が出されるようになった。
黄禍論。
黄禍論(こうかろん/おうかろん[1][2] 独: Gelbe Gefahr、英語: Yellow Peril)とは、19世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種である。
日清戦争(1894年)における日本による中国大陸への軍事的な進出を嚆矢として、同様に中国大陸に進出していたロシア・ドイツ・フランスに共同伝播した政策思想である[3]。 フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』によって世界に流布した[4]。日清戦争に続く日露戦争や日独戦争の日本勝利で欧州全体に広まったとされる[5][6] 。